市松人形館ロゴ  「市松人形の手、足、くらべ」 

市松人形の代表的な作家の作品のうち五体をピックアップしまして手、足、の造りの違いを比較してみました。
いわゆる「お人形」市松、と「活き人形系」の違いなどご覧下さい。
掲載の当館人形は現在「伊豆高原店」にて九月中旬までご覧いただけます。
(参考文献:月刊にんぎょう日本、緑青、他) 二代 山本福松(70Cm)
活き人形師として大正から昭和初期にかけ盛んに製作をつづけました。
現在では東京の氷川神社や群馬県高崎市、千葉県成田市のお祭の山車に飾られる人形に初代作と思われる作品が残ります。また、東京神田の山車作りの名人で「山車鉄(だしてつ)」こと山本鉄五郎、四代続き今も関東各地の祭礼に数多く残る山車の人形の頭はほとんどが福松作とも言われています。市松人形の場合は特に注文生産として作られ当時でもかなり高価なものでした。
現在では幸運なコレクターが密かに保持しているケースが多く、それでも全国で20体あるかどうかと言ったところでしょうか。その作品には活き人形の傑作が多く見られます。当館の作品は福松の実子の山本昭治氏がモデルと言われております。

福松 顔 福松 顔 福松 顔
福松 手 福松 手の腹
手の腹
福松 足 福松 ニギニギ足
ニギニギ足



二代 永徳斎(52Cm)明治
永徳斎の初代は京都亀岡出身、「次郎左衛門雛」で有名な雛屋次郎左衛門の江戸支店勤務の形で上京しましたが明治初期に雛屋から独立、日本橋十軒店(現在の室町三丁目・中央通り)に店をかまえました。たくさんの弟子を抱え、宮家から旧財閥階級まで数多くの上級顧客を持ち、特に節句物に多く傑作を残しています。二代はどちらかと言うと武者人形を得意としました。人形界の名店「永徳斎」は昭和まで四代を重ね、昭和28年に閉店しました。

永徳斎 顔 永徳斎 手 永徳斎 足
二代 光龍斎(三つ折れ)昭和
初代は永徳斎夫人の甥、人形司永徳斎で修行を積みました。二代はその父のもと小学校三年から修行を始め、市松人形に数多く傑作を残しました。
また二代は市松人形界の重鎮であり答礼人形制作の際は、関東大震災で焼失してしまった各人形師の大型の「人形頭」のかわりに光龍斎「頭」が提供され、それを元に答礼人形が製作されたことは有名な逸話です。
完成された端正な顔だちと丁寧な仕事で現在でも最も人気のある作家ではないでしょうか。交通事故による後遺症で、昭和39年、光龍斎が三代で幕を下ろしたことは大変悔やまれます。

光龍斎 顔 光龍斎 手
光龍斎 足 光龍斎 足



初代 東玉(48Cm)
名人、大豊軒東玉、本名:斉木実 明治期、日本橋蠣柄町に店を持ち団十郎の似顔人形が好評でした。残念ながら二代が大正のはじめに若くして亡くなり後継するものが途絶えてしまいましたが、そのぽっちゃりした作風と手足にいたるまで丁寧な作りはいまだに人気が高く、又なかなか市場にも出てきません、特に本作品のように「東玉」を色濃く残した作品は大変貴重です。ぷくぷくした子どもの作風で、つめきり、手の甲のえくぼ、足首のシワまで大変良く作られています。
東玉門下には郷陽などと共に第一回文展に入選した野口明豊がいます。

東玉 顔 東玉 手 東玉 手
東玉 足 東玉 足



二代 郷陽(52Cm)昭和

初代は三代亀八門下の活き人形師。二代も活き人形の系譜に連なり木彫からはじめ、市松人形にも写実的な作風を色濃く残しています。本品は郷陽の工房作品と見られ、手足などに特に大きな特徴は見られませんが丁寧な、作りの良い作品となっています。
ご存知のように郷陽は市松から創作人形に転じ、人形芸術運動をおこし帝展等にも重ねて入選、日本の人形界に多大な足跡を残し、人形界で初めての人間国宝にもなっています。それ故に市松人形に自ら携わっていた時期はそれほど長くなく郷陽手作りの作品は稀少なようです。
郷陽 顔 郷陽 手 郷陽 手
郷陽 足 郷陽 足
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